熊本の城下400年の歴史が創った職と食の街・新町

 

 

新町獅子・その時、その時の時代の中で〜

 獅子400年を考える

新町獅子の歴史を訪ねるにあたり、大きな壁が存在します。一節に熊本城完成とともに新町が誕生した1607年頃からおよそ400年の歴史を有すると云われますが、それを裏付ける資料に乏しく、未だ立証されていません。やはり西南戦争で熊本城を含む藤崎八旛宮の焼失と新町一帯の壊滅的打撃が資料の発見に大きな影響をもたらしています。そういうことから獅子保存会では加藤清正時代からを通算して、およそ400年という言葉を獅子の歴史として使用しています。

 獅子の存在の立証 

 平成20年8月、熊本市より熊本市無形民俗文化財に指定されました。これは江戸時代亨保の頃、(1732年『市井雑式草書 乾』熊本法学13号) この祭りを記述した資料の中に新町獅子が記録されているのが見い出され、時代をさかのぼり獅子の存在が立証され、文化財的価値が認められたことからだと思われます。また、細川藩が作成しました『永青文庫』の中に祭りを紹介した絵巻物がありますが、一大絵巻の中に赤獅子・黄獅子が戯れ、牡丹花を入れた花車を引く様や、チャルメラを吹いて囃子たてる一団などをカラフルに色づけしたところが見受けられます。そのことからも新町獅子の原型を見る思いがしますが、新町獅子舞が活躍していたとの立証までには至っていません。

 幕藩体制の頃の獅子 

 やがて幕末から明治へと時代変遷のなかで獅子は新町の誇りとして町民の中で大事にされ保護されてきたと思われます。推測ではありますが、獅子を構成する舞手(舞う人)や笛手(笛吹く人)太鼓叩く人、銅鑼(鉦・かね)を叩くなどそれぞれ役割がありますが、この方々は家伝来の役割として代々引き継いでこられたのではと考えられます。中には他家へ移されたりして伝統の保存がなされてきたのではと思います。また『細川藩時代、一般庶民の着用を禁じられし絹服をこの獅子舞だけには特に許され祭典の呼び物であったれた……』とあります。

前ページに紹介しました八代妙見祭における獅子舞は、長崎・諏訪神社における獅子舞を取り込んだものと伝わっています。また、宇土・西岡神宮の御獅子も同じだそうです。大変華やかな獅子舞であることがわかりますが、新町獅子の誕生はこの2つの獅子舞よりおよそ90年ほど以前になると思われます。そして獅子の舞い方も違って新町獅子が獅子のあごの両脇下へ突き出た棒を握って舞う、いわゆる所作舞が出来るのに対して、八代や宇土の獅子は、玉とりを主題とした舞を表し、獅子の口を大きく開いたり、閉じたりといった中で体全体をくねらせた舞を見せてくれます。

 時代をものがたるエピソード

 藩政時代に殿様の前で獅子を舞う機会があり座敷から見物される殿様やお姫様の様子を獅子の口の所から垣間みて、今日のお姫様の衣装はこんな風だったよと家に帰って子供達に話を聞かせたと、後の子供たちが大きくなって記憶を物語ったと話も残っているそうです。

 昭和5年ごろの新聞₍九州日日新聞₎に掲載されています新町獅子の舞い方について注意深い記事があります。舞の指導者的な立場からの言葉と見受けられますが、いかに睨みを効かせるか、緊張感が必要だと話しておられます。これは新町獅子が舞を所作のなかで展開していて、獅子頭の握り棒を上手に操り、眼の動きをそのシーンに合わせていかに表現していかなければならないかの説明ではと思われます。

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古い地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和16年ごろの獅子連 祭の日奉納舞のため藤崎八旛宮へ行く新町獅子連
場所は旧町名で「塩屋町」付近₍新町電停あたりから中央郵便局方面へと思われる₎

古楽図の獅子

           古楽図の獅子

 

 

 

            昔の獅子舞(想像)

 

           獅子のイメージ

細川家・永青文庫から(公益財団法人永青文庫所蔵・熊本大学付属図書館委託

 

 

         昭和初期の獅子(新町獅子)

 

昔の子供達

       新町獅子における子どもたちの様子

          祭絵巻拡大図

       黄獅子頭 握り棒を支えている手が見える

         赤獅子頭 口の下に手が見える

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