熊本の城下400年の歴史が創った職と食の街・新町

 

 

苦難を乗り越え喜びと楽しみを人々とともに〜

 そして明治へ

獅子舞の発祥と発展については余人に追及を委ね、私たちは先祖が作り上げ、伝えてくれたことを大事にしてまた次の世代へ受け継いでもらうことに思いを馳せます。明治には町の商家の発展とともにまた新たに獅子に対する思い入れも強くなりました。大店の主人らと旅回りに立ち寄った歌舞伎役者との交流の中で、もてなしのお返しに一つの所作舞を指導された。今日では牡丹の舞という演目ですが、歌舞伎で演じられています”石橋”のような大きな見せ場を演じる、赤獅子・黄獅子が華麗に舞うものになっています。時間にしておよそ13分ほどの物語ですが、平成の今日までしっかり伝えられ残されてきたことは大変貴重な財産となっています。

 ここ新町₍熊本市中央区₎に400年以上受け継がれてきた新町獅子は、獅子を愛し、笛を吹き、太鼓や鉦を打ち鳴らし獅子を舞い、時代に明るい灯をともし続けてきた先祖の人々の苦労は計り知れません。つい最近、といっても昭和5~6年ごろの新町の獅子の様子が町の篤志家から伝えられ、当時の写真も手にすることが出来、驚愕の思いでした。

 

 藤崎八旛宮の例大祭に参加して神前にて奉納舞をするのが大きな誇りであった町民にとって大正期の長い中断を経て、昭和5年の参加は大きな朗報となり町民あげての喜びがありました。当時の地元紙、九州日日新聞₍現・熊本日日新聞₎が写真入りで大きく報道しています。

 

   大戦にも負けず

 先の大戦₍大平洋戦争)に突入した昭和16年から終戦の20年までの苦労と戦後の苦しい時代を獅子を守る町民は手に手を取り合い歯を食いしばってしっかり守ってきた。そこには獅子に勇気づけられたり、楽しみを見出したりとする人々がいたからでしょう。人間国宝・歌舞伎役者坂東玉三郎さんは、伝統芸が受け継がれるのは、そこに観る人がいるからと云われます。新町獅子が今日あるのもその言葉通りのことが実行されて来たからでしょう。終戦の翌年、昭和21年の藤崎八旛宮の例大祭は喜びに溢れたお祭りだったそうですが、新町の獅子舞も有るもの全て取り揃えて参加したそうです。

 

   保存会の誕生

 

 やがて昭和30年代後半、熊本市の発展をけん引してきた新町にも、モータリーゼーションの波は押し寄せ、道路が狭い町から商家や企業は活路を求め郊外へ移動して行きました。働く人々も勿論働く場所を定めているので当然町から人口の減少は否めない事実でした。獅子を支えていた獅子連からも担い手の減少と新加入者の不足に悩ましい時代となったようでした。

 隣近所の住民で構成されていた「連」というつながりから「保存会」という広域から参加者を募る組織に獅子の団体の形態が変化を遂げたのが昭和40年だったそうです。名称も熊本新町獅子保存会と改められた。

 

 

古い地図

     昭和50年代 例大祭飾卸 天拝の舞

 

    昭和50年代 道行における太鼓車・保存会の基礎を

    しっかり築かれた。右から村上、田崎、渡辺の各氏

    すでに故人となられました。

     舞の指導中・赤獅子 指導者は渡辺 章氏₍故人)

           練習中・昭和50年代

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      昭和10年代花車と唐人の女児

         昭和初期の服装

     昭和・戦前の唐人 飾卸のため藤崎宮へ

 

   道行における太鼓とドラ 笛の音に合わせてたたく。

      藤崎八旛宮 飾卸 天拝(黄獅子)

 

            天拝での赤獅子

 

    昭和20年代後半・人形師 厚賀荒太氏(故人)

    戦後を乗り越えた喜びがうかがえます。