熊本の城下400年の歴史が創った職と食の街・新町

 

新町獅子・名称の由来

 新町獅子は藤崎八旛宮と深いつながりがあります。藤崎八旛宮の創建は西暦935年といわれ、爾来脈々と藤崎台(熊本市中央区宮内)にて営みを続けていました。残念ながら1877年(明治10年)薩摩・西郷隆盛と士族が起こした西南戦争により、主戦場となった熊本はたちまち戦火に見舞われ、熊本城焼失、新町一帯すべて灰燼に帰し、藤崎八旛宮も戦火を免れることはなく、すべて燃え尽きたのでした。

 藤崎八旛宮健在の折には、肥後国一番の大鎮守ということで新町地区の人々は鳥居基として甲斐々々しくお宮に奉仕していたものと思われます。秋の収穫時には、豊かな実りを喜び、五穀豊穣や悪霊退治、子孫繁栄など獅子を舞って神様に感謝していたのではと思われます。(神社焼失のため資料はありません)

 西暦1500年代終わりに近いころ熊本へ入国し治世を行っていた加藤清正は1607年に新しく壮大な規模で熊本城を完成させました。そして同時に熊本の西方に位置するここに新町という名称をつけて城下町を施設しました。町づくりには、城下の各地にあった町名に新という文字をつけて職人や、商人を住まわせて町の発展を図ったと思われます。想像ですが、獅子にも新たな思いを込めて『新町獅子連』という名が付けられたのではと考えます。

 藤崎八旛宮も加藤藩と引き続き細川藩が肥後を治めましたが両藩の大いなる庇護のもとしっかり神社としての役割を務めてきたものと思われます。そして新町獅子もまた神社と深いつながりを持ち氏子の人々に守られて、時代を生き続けてきたのでしょう。徳川家、およそ280年の時代も獅子舞を人々の前で誇らしく舞を繰り広げていたのではと思われます。細川家、永青文庫に所蔵されている祭絵巻の中にも道中を楽しそうに動き回る獅子舞の絵が見られます。平成20年に熊本市無形民俗文化財の指定のよりどころとなった資料として、『市井雑式草書 乾」(「熊本法学13号』によると新町獅子舞は、享保17年₍1732年₎まで遡ることができるとあります。 やがて時代は明治・大正と近代への道を歩み大きな変革を遂げ、現代に至ってきました。『獅子』も町の人々の熱意と思いやりに守られて保存されてきたと思われます。新町獅子連と云った時代は昭和40年頃までで、そのころから『熊本新町獅子保存会』に改称して人材を広域から募り、活発な活動が展開されました。今日、保存会は創立50年目を迎えています。

  

 

 

古い地図

 

 

樹齢千年を過ぎてなお若葉を輝かせる大楠7本。大正13年
国指定の天然記念物に指定されています。

 

 

       焼失前の熊本城(明治10年以前)

         焼失後の藤崎八旛宮

 

        

妙見祭の獅子

       八代妙見祭に於ける獅子舞(元禄4年・1691)

 

       宇土の御獅子(元文5年・1740)

 

       祭絵巻に見る新町獅子舞

永青文庫・祭絵巻 公益財団法人永青文庫所蔵・熊本大学付属図書館委託・熊本県立美術館撮影提供

 

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