熊本の城下400年の歴史が創った職と食の街・新町

     

 

        

 

先祖が守り伝えてきた新町の獅子舞が今も脈々と光輝いています。現代の私たちにと って及びもつかない程の苦労があったことは想像できます。しかしそのお蔭で新町の文化として誇りに思い日本の各地に生き続ける獅子に負けじと舞を演じています。古来から祭や古典芸能は神社とのつながりが欠かせないものではなかったかと思います。新町の北に位置する高台₍茶臼山と云った)に西暦935年、京都石清水八幡大神を国家鎮護の神として勧請されたのが藤崎八旛宮と云われています。現在ではこの地を藤崎台と呼んでいます。この地域の一部は宮内と呼ばれていますが住んでおられる方々は地名に誇りを持っておられます。肥後一と呼ばれる程の大きな宗廟の下でこの在所で生活する人々も張り合いのある暮らしとともに神社の繁栄に勤しんでおられたのではと思いを巡らせます。

 

 神社との結びつきの中でどのようにして祭の原点ともいうべき獅子が誕生したのは分かりませんが悪魔(流行りの病・自然災害)から暮らしを守ることや、五穀豊穣と云った事を祈願する中から獅子というものを使っての手段が生まれていったのではとの想像が出来ます。

 昨年(2015年)の藤崎八旛宮例大祭における献幣祭は1080回を重ね、歴史の重さを感じさせます。放生会に発すると云われるこの祭も時代の流れの中で多様な変化を遂げつつ今日の形態を保っていますが、地元から出されたと思う獅子がどのような時期にどの様にして参加していき発展してきたかは、遠くに思いを馳せると楽しくもあります。そして地区の人々は獅子を祭に絶やさないようにいかにして守り伝えてきたかも想像します。細川家・永青文庫に見る祭絵巻のなかの獅子舞を原点にしてみますと獅子の表情や形も現在とは違う様に思うもののやはりこの形から様々な変化を遂げ今日の姿になったのだと思います。

 伝承という言葉を考えたとき、その長い年月のなかで伝えられ守られてきた沢山のものがあります。受け継いだ人々もまた祭を経験するなかで次の世代へしつかり伝えていったのでしょう。そして私たちが目にした獅子の様子を見たのは、富重写真所で撮影された大正の頃と思われる新町獅子舞の写真でした。それから目にしたのは昭和の初期(昭和5年~)の写真からです。当時2歳で獅子舞に参加された方の写真で、セピア色に染まった1枚の写真から沢山の情報が読み取れました。

 現在の獅子保存会の獅子舞に対する接し方は現時代にあった進め方、道具の使い方、そして修理するとき色んな要望と云ったものを提案しながら作り変えていくといった手段が取られいます。 恐らく明治以前もその時代にあった扱い方、保存の方法がその時の最先端として変化して行ったのではと推測します。明治時代以降もそのように変化しながら伝えられてきたのではと思います。

 

 しかし伝統あるものを守り伝えていくと云うことは並大抵のことではなかった筈です。そこには人力や資金も必要だったことでしょう。このことは現代にもつながります。              

                     

 

 

    古い地図

     昭和40年『連』から保存会へスタートした頃(クリックして拡大できます)

   

    昭和40年連から保存会へ、当時のメンバー(クリックして拡大できます)


クリックして拡大できます

   昭和5年藤崎八旛宮例大祭に参加した時の新町獅子連

     (現在の一新幼稚園にて)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昭和10年代花車(クリックして拡大できます)

 

      昭和の戦前の子どもの様子

  

   当時の模様を伝える昭和5年当時の九州日日新聞から

 昭和5年参加の親子(クリックして拡大できます)

 明十橋通りでの獅子舞・大正時代後半(富重写真所)

      (クリックして拡大できます)

 

 

            

 

 

    

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